モチベーションに頼らない技術

無理ない暮らし
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リハビリについて前回考えた。引き続き考えていく。自分へのメモ。

リハビリをどう定義するか。自分の場合は結局のところ、無理ない暮らしに近づけると考えればシンプルだろう。

リハビリはしんどい。今まで何度も経験してきている事ではある。

以前の状態に復帰させるという目標は可能な場合はモチベーションも維持できるだろうが、元の状態に戻らない場合は投げやりになってしまう。

生きている意味すら失う場合もある。元の状態、それよりも良い状態が目標達成の最低限の状態だったりすることもあるわけだ。

となると、否が応でも自己を再定義しなければならない。そうでなければ死にながら生きるような事になってしまう。

別にこれは病気だろうが事故だろうが怪我だろうが、離婚だろうが、夢に破れることであろうが同じだ。絶望すると言い換えればいいか。絶望に対抗する方法を考えるということだ。

今までずっと考えてきたことだ。モチベーションを持てなくても、最後まで前進するには、技術が必要だ。技術ならばモチベーションは関係なく、最後まで前進できるはず。

今まで、どうしたら絶望せずに生きていけるか考えてきた。絶望は可能性が固定されること。老いと病いは同じと定義したことで、長く乗り切ってきた。

目線を変えること。再定義すること。そうすれば絶望は絶望たり得ない。

絶え間なく自己定義を変えることはしんどい。これには問題がある。退屈さと闘う技術という記事で考えた。好奇心、他者の可能性を見出すことが鍵だ。

好奇心を持ち続け、できなくなることが増える中でも常に新しいことをやり、少しの進歩でも満足する。
これは、ポジティブさの化物ではないのか。人間とは程遠い。
可能性が潰される度に新たな可能性を探すのか?
そこに愛着は?
打開策は他の人に可能性を見出すことだ。好奇心はやはりそう考えると、絶望と戦う武器だ。
ただ、好奇心だけでは足りない。好奇心を持つのと同時に、他者の可能性を見出すこと。
自分が愛しているものに没入する。自分はもう進歩できない。
だが、誰かが自分ができなかったことをやってくれるかもしれない。
自分がやったことをやろうとする人が一人でもいて、その人が前に進めるなら、自分の人生はムダでなかった。
逆説的だが、究極的な状況では、自己満足は他者への献身となるのではないか。

今の自分は、老いが病に追いついたといえるだろう。

老いについては、老いについて考える技術で自分なりに考え方を整理した。

老いは選択の連続だ。無駄なものを削ぎ落としていくのは当然だが、大事だったものもできなくなるのだから捨てていくしかない。

モチベーションだけでリハビリをすることは自分には出来ない。将来が良い方向に変わると考えられるほど、若くも無邪気でもない。だが、それは絶望する理由にはならない。

熱中すること。自分の友人や大事な人間に自分ができることをすること。

回復しようというモチベーションを中心に置くのではなく、定義を変えること。回復の目標は遠く実現不可能でも、他の事に変換すれば、モチベーションに頼らず前進できる。

リハビリのために歩くのではなく、うどんマップを作るために歩く。美味しいものリストを作るのでいい。

絶望と対抗する事がうどんマップ作成って、あんたなんやという話である。

うどんによる救済と再生。ハリウッドも泣くかしら…

我ながらイカれてますね…

良いのだ。しかめっ面するのではなく、出来れば軽やかにね。最後までヘラヘラと。ボンクラは悪いことではない。

歳を取ると経験で、さまざまなことの共通性を見出すことができるように。さまざまなことをより力を使わず処理できるようになる。その一方で、見えすぎることで絶望もしやすくなる。

ボンクラで結構。ボンクラだからコストや先の長さを考えずに楽しめるのだから。

自分は自分以外になれない。だからこそ、自分を知り、絶望も希望も持たず毎日を同じように送りたいのだ。

視点を変える、定義を変えることで今までも乗り切ってきた。

食事を作るのがしんどいときには、楽に出来る方法も考えたが、一番効果的だったのは道具を使う時間と定義を変えたこと。

うまいものやうどんマップをつくるのであれば、自分の食事を作らなくて良くなる。その事で、心理的なコストも下げられるはず。

ブログの定義を変えた。ブログは自分の友人たちに宛てた手紙と定義を変えた。これなら続けられる。

楽しんでもらえるものを書くために歩くなら続けられる。別のモチベーションに変えるともいえるか。

普段は勉強のための音楽しかほとんど聞けないけれど、歩くときは自分の好きな音楽を聴く時間に充てる。

体調が悪いときだけは自分の好きなもの読むことを許してきた。その考えを拡張する。生活の全てを目標のために使うことはもう出来ない。だが、それは新たに学ぶ事ができるように切り替えればいい。

今まで真面目にやらなかった歌うことを歩くときにやってもいいだろう。やってない事だから上達はする。しんどい行動に違う意味を持たせる。今までやってきた事だ。

そして、続けるためにも考えを整理した。

継続することが難しいなら、再開し続ければいい。

習慣化するときに、限りなく目標を低く設定する技術は身に付いている。週に1回だけクリアできれば良いと考えれば多くのことを習慣化できた。

この先安定しない体調で継続ができないとしても、週に1回で低い目標ならクリアはできるだろう。

そして、目標を多く持つこと。興味を広くすることは引き続きやればいい。

歩けない天候なら、家でケトルベルの練習をしてもいい。今の体力でできることは限られているけれど、フォームを洗練させることはできるだろう。

動けないなら、瞑想の練習をするのでもいい。

ギターを弾くのが難しくてもパッドなら弾ける。演奏できなくても頭は使える。

大丈夫。すでに考えてきたことを技術として一つの考え方として整理すればいい。認識できれば出来る。イメージが持てたのだから、絶望はしない。

ブログは書く。自分にとっての快適さ、不快さは自分しかわからない。

文章化することで、頭が働くときに、さらに考え方を深められる。今までずっと考えてきたことであっても、ブログに書いたからこそより明確になった。

ブログを書くことは快適な時間を増やし、不快な時間を減らす。

友人たちへの手紙であり、自分へのメモ。答えは常に自分の中にしかない。

他者と自分を比較しない、熱中する何かを持つ、視点をずらす。自分以外の他者の進歩は自分を鼓舞させる。全部わかっていることだ。

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