合理的であることは対話が可能になること



記録することは好きだ。合理的であることと記録をすることには関係がある。

仕事柄記録を取ることは好きで、パワーリフティングが面白いと思うのもそこに理由がある。

自分のものの見方は、楽観的というよりは悲観的だ。

自分でもその傾向はわかっているので、悲観的、楽観的のどちらかであるというより、合理的でありたいと思っている。

どちらかにものの見方が偏りすぎた場合に、周りにそれを修正していくれるひとがいれば良いが、いない場合は自分で自分を保たなければいけない。

自分で自分を鼓舞しなければ前に進めない。その時に、猜疑心が強い自分は、その根拠を求める。

記録がなければ自分を納得させることが自分には出来ない。

「前より進歩した。前より悪かったけれど、これが原因だ」このように因果関係を求める。

自己憐憫は本質的に無意味だ。誰もがそれはわかっている。が、孤独である場合は自己憐憫にとらわれやすい。

自己憐憫に陥りそうな時に、記録を見れば、当然の結果だと受け入れられる。因果関係がわかるからだ。

自分のミスや責任で苦しい状況になったのだと思えれば良い。

自信をもっていえるようになったのは、記録をとったからだ。

自分のミスなら自分だけで改善できる可能性がある。

自分以外のミスはコントロール出来ないのだから仕方ない。できることをできるようにやるしかない。

合理的というのは、人間らしく生きようとするときに必要なことだ。

ポジティブになれと言われてポジティブになるのは難しくても、合理的であろうとすることはできる。

自己憐憫に陥りそうになった時に、客観的にそう言えるのかと自分に反論できるかどうかは、記録をとっているかにかかっている。

極端にネガティブ、極端にポジティブというのはどちらも合理的ではない。

合理的であるということは自分と違う他者とも対話が可能になるということだ。

「いろいろ人は違いますよ。多様性がありますよ。多様性は重要ですよ。」じゃあ、その多様性を担保するのはなんだ。自然権があるからか?

そんな面倒くさい話ではないのだと思う。自分と違う他者とも共通しているのは他者にも合理性があるだろうということ。

昨日、散歩している猫に話しかけたら、威嚇されたので対話可能性について考えました。記録して猫と仲良くなれるかどうかは知りません。このアイキャッチ画像のように凄い顔されました。

こちらからは以上です。











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