公共の敵



公共の敵

ここのところ検査やら治療やらで病院にいることが多かったので、つらつら考えている。

体が悪いということは全てに対するコストが跳ね上がる。

一つ一つの行動を起こすことが困難になるからだ。

病気と老いは本質的に同じだと考えて来たのは、どちらも行動のコストが高くなるからだ。

そして、これは所有権と関わる問題でもあるよなとぼんやりする頭で考えた。

なぜ、病気の話で所有権が関わるかというと、自己の身体の所有権はどこにあるかと考えざるを得ないからだ。

所有権を考えることは、幸福についても同時に考えることになるだろう。

なぜ、争いは起こるのか。所有権が侵害されているということは幸福ではないということだ。

多くの諍いは、これは、誰がこれを所有しているかという意見の相違から起こる。所有権についてはいままでも考えてきた。

愛について考える

買うこと

幸福の定義はさまざまあるだろうけれど、満ち足りている状態であるということは言える。

幸福であるということは、無形、有形を問わず、何かを所有していることだ。

幸福が誰かと同じということはありえない。

人権は、所有権の拡大とともに発達してきた。社会契約説が生まれたのは所有権が発達したからだ。

コミュニタリアンとリバタリアンの違いはどこに所有権を置くかの違い。

そしてこれは結局、個人と集団のどちらが所有権をもつかということ。

功利主義やリベラリズムは、個人の幸福に集団が関わっているから、究極的には個人を侵害する可能性がある。

現実的に、システムがなかったら生きられないのは百も承知ではあるのだが。

で、ちょっと考えると、全体主義と福祉国家って地続きだよなとわかる。当たり前だけど。

あんたみたいなポンコツは、社会的なコストを増大させてるから、他者の所有権を侵害していると言われたら、反論できない。

まあ、健康であったとしてもボンクラだから、いろいろコストを増大させてるわな…すまんかった。

公共の福祉を優先するので、生命を制限する。

ちょっとしたディストピアみたいに思えるけど、歴史的に見たらそういう時代のほうが長い。

姥捨て山というのはあったわけだし、間引くということもあったわけだ。

コストの面で、最大多数の最大幸福と言われたら、自分のような人間は生きられないことは自明だ。

公共の敵になるということだ。

今の日本社会では、公共の福祉のために死んでくれとは言われない。

全体主義なら強制的に人権を制限されたり、殺されたりするだろうけれど。

歯止めを掛けているのは、個人の生命は最大限尊重されるということ。

で、全体主義と福祉国家って、何が違うのかを考えてみる。今生きている日本は福祉国家。

全体主義国家というのは、所有権を究極的に持っているのは国家だと考えられる。

最大多数の最大幸福をコストだけで考えるなら、少数の社会的弱者を切り捨てるのは当然という理屈になるだろう。

福祉国家はそうはしない。個人の生命は尊重されるから。

できるのは注意喚起になる。健康に気をつけましょうと。

でも、これもある面で恐ろしいよな。健康に気をつけましょうという言葉は体が悪い人間にはかなりきつく響く。

健康でない人間には、できうることをしていないと言う気持ちになるからだ。

道徳による支配とも言える。

道徳は厄介だ。

守れなかったら、社会的に制裁を加えられるわけだ。

中世の神の時代と大きく福祉国家が変わることはないのかもしれない。

良心の支配は、ずっと続く分だけ、ある意味もっと恐ろしい。どこに行っても逃れることはできないからだ。

じゃあ、明確な解決法があるかと言われたら、そんな物は存在しない。

ただ、個人と社会のように選択がそれしかないから問題がおこるのではないか。

複数の集団に所属すれば、多少はうまくいくのではないか。

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ある集団では悪とされても、違う集団ではそうではない。

だれでもそういう一面は持っているだろう。

ただ、実際生きるためには一つの集団で長時間過ごすことが多いから、その集団の倫理を共有できない場合は苦しくなる。

だから、簡単に退出できて、参加できるような集団があればいいのだろう。そう思ったこともPUSH勉強会のきっかけにもなった。

PUSH勉強会とは

生まれた社会から退出する方法は難しい。

究極的には死ぬしか脱出方法はないといえるだろう。

価値観が内面化されるというのは逃げられないと言うことだから。

生まれる社会は選択できず、その社会と反する価値観を持っていたとする。

マイノリティの生きる苦しさはそこにある。

今、個人の権利の多くは、かつての公共の敵が作ったといえる。

当時は、集団から受け入れられない考えなわけだから。最大多数の最大幸福という考え方とは対極にある。

性の多様性であれ、リプロダクティブ・ライツであれ、認められていなかった時代のほうが遥かに長い。

だが、更に拡大して考えると、かつて、公共の敵だったものが勝ち取った権利が次にそれを守るために、倫理を作ることになる。

そして、今度は新たな倫理となり良心という形で内面を支配する。

え、何そのRPGのバッドエンドみたいなのは。主人公が魔王になるみたいな感じやんか…

どれか一つの価値が絶対にならないようにするには、多様性が担保されないといけない。

だから、ある種の矛盾や集団の意見の相違は必要なことだ。だから自由権は必要なのだ。

自分の意見、価値観と違うものこそが誰もが生きやすくなる価値を作っていくということに他ならない。

だから、私が好みではないキャットフードを買ってきたからと言って、そんなに責めないでほしい。

一緒に生活している猫にめっちゃ怒られました…アイキャッチみたいな感じ。

一口も食べずにお皿をひっくり返してます。

いや、新しいものが美味しいこともあるでしょ…?

多様性全拒否。

多様性への道は困難を極めるかもしれない。だが、それを諦めてはならないのだ!(ごめんなさい)

 

 

 

 

 

 











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