食事について考える | 無理ない暮らし
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食事について考える

無理ない暮らし
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食事ついて考えてみます。

食事ついては、快適な部分と不快な部分があって、コンディションによって大きく感じ方が変わってしまう。

どの部分が、快適に感じるのか、どの部分が不快に感じるのかを詳細に見ていけば、もっと改善できることもある。

自分は食事は好きだと思っていたけど、全部が全部好きなわけではないです。

不快に感じたものを少しずつ無くすように実験してきたんで、改めて記録して更に改善できないか考えてみます。

食事は面倒くさいときもある

食事は自分にとっては面倒くさいときもかなりあるものだと言うのが改めてわかりました。

楽しい時より面倒くさいときのほうが多いかもしれない。だから、なぜ面倒くさいのか考えてみます。

面倒くさく感じる要素はいくつかあるので、まず、それを面倒くさくなくなるように考えていく。

面倒くささは、退屈さと言い換えることもできると思ってます。主体性が失われてると感じている。

面倒くさいけど、食べないわけにはいけない。食べるのが好きだったら一日3回は楽しみがあるわけでいいわけですけど、残念ながらそう自分は出来てない。

楽しいときもあれば、楽しくないときもある。

やる気がなくても、生活できる仕組みを作るのが無理ない暮らしにつながるはず。

結構試行錯誤してますね…

買い物が面倒くさい

近所のスーパーが改装中なのもあって、ちょっと家から離れたところに買い物に行くのが面倒です。

足の不調があって、そこまで歩いていくのがしんどかった。

まあ、足はコンディションの良し悪しでも変わるんですが、ちょっと前までは不調がかなり続いてきつかったです。で、考えてみました。

対策

  • 収納力が上がる冷蔵庫を買った
  • ネットスーパーの使用頻度を増やした
  • 自炊しないことも増やした
  • 買い物に他の機能をもたせた

冷蔵庫がいままで単純に小さかったので、こまめに買い物をせざるを得なかった。単純に収納力が上がればまとめ買いすれば済む。

ネットスーパーに関しては、正直スーパーが徒歩1分のところにあるし、コンビニも徒歩30秒くらいのところにあるんですが、だるいときは積極的に使うようにしました。

疲れているときには自炊をしないという選択肢も増やしました。

ケータリングや外食することで買い物の手間を減らすのも実験してるんですけど、外食は食事に時間を使うという意味ではあまり自分にとっては幸福度を上げないのかもしれないですね。

ああ、これくらいなら読書したかったとか、練習したかったとか思うことが多いんですね。食べてる間は楽しめても、後で違う事やっておきたかったとなる事が多いと言うことは,食べることの優先順位は私に取って高くはないと言う事なんでしょうね。

買い物に他の機能をもたせたことも大きかったです。

毎日8,000歩歩くことを目標にしました。

米国人の歩数強度と死亡率の論文をみて、歩くことに意味をもたせた。

バイクや車を買うことも考えたけれど、ものが少ないこととの快適さと、歩くことの手間を秤にかけたら歩くほうがマシだったということですね。

買い物の何が嫌かという食事を作るというためだけの時間なら、音楽や勉強に振り向けたい。ただ、それが行動のベースになる健康と関わるのなら許容できる。

なんというか、殺伐とした世界観ですね…

食べるのが面倒くさい

こんなブログを書いていて、料理記事や食べ物記事もあるのになんですけど、食べることが大好きというわけではないですね。

作ることに比べると食べることを快適と思えないことが多いんです。胃のヘルニアがあることも原因の1つですね。

食べるのが面倒くさいのは、単純に食べるために時間を取られること、食べたあとに活動レベルが一気に落ちること。この2つですね。

配膳と片付けも面倒くさいんですけど、食べることではなく別項目に分解して考えたほうがいいですね。

対策

  • 一日2食にした
  • よく噛む
  • 小鉢中心に食事を考えることにした

大きかったのは一日2食にしたこと。自分の消化吸収能力を考えると、一日3回食べるより、一日2回ある程度の量を食べたほうが自分には腹も苦しくないみたいですね。

トータルカロリーは変化させていない。

加齢するとタンパク質の同化能力は落ちるので、一回あたりのタンパク質量を増やせることは効果があるかもしれない。まあ、これも実験。

3回食事を食べる時間より、2回にすれば時間も少なくなる。

よく噛むことは、時間を取られることでもあるんですけど、食後の不快さを多少なりとも軽減出来てます。

小鉢中心に食事を考えるようにしたのは、色んなものを少量食べるのが自分にとっては食べたいと思う食事だったということですね。

食べることそのものが好きでないとなるとしても、少しでも好きなものを食べるようにすれば、面倒臭いのではなく、楽しみに変えられるはず。

配膳の準備、食後の片付けなどを考えると時間を取られることではあるのだが、今の所、面倒臭さを上回るメリットがありますね。

食器の配置、片付けが面倒くさい

皿を出すのも片付けるのも面倒くさい。いや、本当に疲れるとなんでも面倒くさくなっちゃうんですよね…

だるくなると一番最初に食事が乱れる。食事が乱れても体調が悪くならないなら問題ないんですけど、自分はそうではない。

だからこそ、疲れにくい仕組みを作らないと。一度考えておけば、あとはそれを改良していけばいい。

不快さを分解して定義できれば、他の機能をもたせることが可能になる。

そうすればモチベーションに依存せずに動ける。やる気を出そうとしなければ出来ないのは自分には無理ですからね…

大きな声で言うことではない気がしますが…

なのでいろいろ実験してみました。

対策

  • 食洗機の導入
  • 食洗機を使える食器に入れ替え
  • 保存と食卓に出せる食器を統一する
  • 写真を撮る
  • 食器を絞る

食べるのが面倒くさいのは、準備と後片付けに時間が取られることにもある。じゃあ、それを検証しましょうと試してみました。

実験で一度1週間ほど、紙皿と割り箸で食べてみたのだけれど(狂気ですね…)、手間は減らせたが食事に対するモチベーションが落ちただけだった。手間を減らせても、楽しくもなかった。失敗です。

食洗機は導入して、片付けの手間は減らせたけれど、食洗機が使えない皿もあったのでそういうのは全部処分。多少マシになりました。

食洗機が使える食器に入れ替えた。でも、これは改良の余地がありますね。

食洗機に入れる時間、収納する時間も自分にとっては無駄な時間と感じている。

まあ、ここは収納がしやすかったらかなり改善できるだろうし、食洗機の容量が大きかったら回す時間も減らせる。

食洗機が回っている時間も不快な時間です。

いま、リビングで仕事してるんですけど、食洗機の音がうるさいんですね。

食洗機を回している時間は動画を撮ったりすることは出来ないし、集中力が欠けているときは文章を書くことも出来ない。

これは引っ越すことでしか解決できない。なので引っ越します。

保存と食卓に出せる容器を統一するというのは、こういうやつです。

一人で食べるときは小鉢でコントロールするけど、二人で食べるならこういうものにすれば簡単ですし、彼女と生活時間帯がかなり違うんですね。

私は小鉢で食べたらいいけれど、彼女が一人で飯を食うときに小鉢に入れるのはだるいでしょうし。これなら食べきれなかったものはそのまま冷蔵庫に入れたらいいですね。

写真を撮るのは、写真を毎日撮ることで、何が美味しく見えるか考えられること。写真の技術をあげようとか、皿はどういうものがいいのかとか、食事以外の機能をもたせられる。

食器を絞るのはこの料理にはこれと考える時間をカットできるから。

余裕があるときなら皿を選ぶのも楽しいはずなんですけど、余裕がある時を基準にするのは危うい。余裕がないときはやる気が必要になりますしね。

だから、パターンを作る。

食事を作るのが面倒くさい

いや、面倒くさいばっかり書いていて、さすが年季が入ったダメ人間だなと我が事ながら感心しています…

食事を作ることは、食べることや片付けるよりずっと好きですね。あまりモチベーションに左右はされない。ただ、作るのがより楽になれば他の嫌なことに対処できる余裕が生まれる。

対策

  • 調理器具を取りやすい位置に配置を変えた
  • 使いやすい調理器具に変えた
  • 小鉢中心の料理でメニューを限定した
  • 調理法をモジュール化した

効率化ですね。このあたりは好きなことなので楽しんで改善できました。

まあ、まだまだなんですけど、根本的に改善するには場所が必要です。引っ越すしかない。

道具に関しては、調理がだるいときでも、いい鍋を使うとかなら楽しくできる。調理するのではなくて道具を使うことを目的とするのは自分にとっては良かった。

先ほどと重複するんですけど、小鉢に入れる料理は楽でした。

PFCバランスや必要栄養素を考えるとある程度メニューは決まります。何でもそうですけど、やることが限定されたらその分技術が向上するのは早い。カロリー計算も簡単になるし、何を作ろうか迷うことはなくなる。

いろいろメニューについては考えたので、またそれは考えをまとめたいと思ってます。

モジュール化については、ファミレスじゃないけど、切り方が共通してるものとかなんかだと手間省いて何品も作れますよね。

切り干し大根の煮物ときんぴらとか。肉じゃが、カレーの玉ねぎの切り方とか、じゃがいもの切り方とか、茹でてあるとか。

カット野菜ももっと積極的につかってもいいんだろうな。自分の満足度を考えると、品数多く作るほうが、満足度が高いようです。

まとめ

食事に関する面倒臭さはずっとあって、一度しっかり考えをまとめておきたいと思っていました。

自分の体調によって、食事は楽しかったり、楽しくなかったりする。結構な時間を死ぬまでに食事に使うわけです。

効率だけ追い求めるのは、わびしいと思う気持ちがある一方で、効率を極限まで考えないと、それこそ楽しみのための調理も出来ない。

人間的に生きようとするなら、非人間的なまでに効率を求めないと、余裕が持てないんですね。弱者である自分が効率やコストを考えずは生きられない。

私は丁寧な暮らしには興味がないんですね。そこにある種のドグマを感じてしまう。

余裕がある人しか丁寧な暮らしは出来ない。弱者である自分には出来ない暮らしですから。

手間を掛けることそのものが自己目的化することの違和感といえばいいんですかね…

食事と音楽って似てると思います。

自分で全部音色作ったり、自分ですべて演奏して作ることが楽しかった時期があるんですね。

生きていくことはままならないから、自分だけで作りたい。そういう欲求があった。

作る行為って、自分じゃないと作れないものを作るからやるわけで、そうでないなら自分でやらない。その究極が丁寧さなのかもしれない。すべてを自分で作ることなのかもしれないと思っています。

料理もそうなんですね。なんというか、カット野菜を使うのは邪道だなあとか。そう思うときがあります。でも、手がしんどいときはある。

でも、カット野菜を使おうが、顆粒だしを使おうが、自分が作ったら自分の味になる。

音楽も同じで、プリセットをちょっといじるくらいで邪道だなあとかと思ってましたけど、結局作ったら自分の個性は消しようがない。

でも、今、音楽も無数にプラグインがあり、そのチョイスそのものがその人の感覚だし知識だなと思います。

私が求めているのは、自分でコントロールしている感覚なんですね。それがあれば絶望しない。主体性を失わないと言うことです。

料理もそう。ほんとう、融通利かないんですけど、たけのこだって自分で煮ないといやだったんですね。

狂気ですね…

そんなことで主体性は失われないですよね。我ながらどうかしてます…

たけのこで失われる主体性。そんな主体性いらないです…

まあ、正直なこといえば、自分で手間暇を掛けたほうがうまいものは作れることはわかっている。

でも、それで消耗したら意味がない。疲れると私はすぐに、100か0かとなってしまう。出来なかったから意味がないと思ってしまう。

主体性が大事と考えているのに、すぐに手放すように考えてしまう。

本当、弱いなあと思います。

やー、おっさんなら賢くなると思ってましたけど、全然そんなことないんですよ。むしろ体力がなくなるから考えることを放棄しがちで、自分のボンクラさに驚きます。

0日100かというのは自分の性質で変えられなかった。

でも、だからといって諦める理由にはならないですね。

言語化出来たら必ず方法はある。

やり方がわからないということがすべての問題の本質で、そうなれば、できることをやるか、あるいは出来ないことを受け入れるだけの話ですしね。

だから、違うフレームワークで考える。

品数を1番の目標にすれば、疲れたらお惣菜買ってもいいじゃないですか。

食べないより絶対にいいわけですし。ゆるく、無理なく続けられたほうがトータルとしてはいい方向に向く。

いつも頑張るなんて自分には出来ない。

全部を変えられないとしても、諦めずに少しずつ変えていく。

無理ない暮らしなんか手に入らないのはわかっている。でも、視点をずらして考えれば、今より無理ない暮らしに近づくと思ってます。

いやあ、食事、なかなか深い問題ですね…

本当は小鉢料理でダイエットとかトレーニングするのに楽とか書こうと思ってたんですけどね…

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