信じることについて考える | 無理ない暮らし
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信じることについて考える

無理ない暮らし
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3月末でいろいろなことについて自分なりに結論を出したい。

それまでに、頭をいろいろ整理しておく。

信じるということについて、少し考えることがあったので書いておく。考えが変わったわけではないのだけれど、自分の考えを折に触れて点検できるようにしておく。自分へのメモ。

絶望とは可能性が固定されたことだと思っている。絶望が常に周りにある中で生きてきた。今もそれに抵抗しようと生きている。誰だってそうだろう。

ロクでもない生き方をしてきた。自分くらい生き汚い人間はなかなかいないだろう。信じるということについて強い疑いがあった。

もともと持病があったことに加えて、自分が本当に得たかったものを得られなかった挫折感を燃料にして生きてきたようなところがある。認めたくはないけれど。

それでも諦めきれずに、学び続けた。諦めが悪い。頭が悪い。

子供の頃から音楽が溢れる環境で育ってきた。

親に残されたものは借金くらいかと思っていたが、読書と音楽を愛することを与えてくれたことは感謝するべきなのだろうな。

孤独だった。苦痛にも感じなかったが。

病気やリハビリで病院にいると、自分が社会から隔絶していると感じるものだ。

自分一人が生きようが死のうが、人口を表す数字が一つ減るだけ。

なんの意味があるというのか。なんの意味もない。

子供というのは恐ろしいもので、経験がない分、純粋に論理だけで結論を出す。

ただただ、生きることなど意味がない。それだけのことだ。

どんな努力も、どんな希望も必ず潰える。最後に行き着くのは死である。それだけは確かなことだ。

薬を飲む、投与されるたびに毎回ロシアン・ルーレットをやっている気持ちになった。副作用がある薬を飲むということはそういうことだ。

数ヶ月に一度は誰かがいなくなる。こういう環境だった。色んなものを学びそこねてこんな年になってしまった。欠落していることはわかる。だが、埋める方法はわからない。

ロシアン・ルーレットに当たれば死ぬ。

多くの人は死を意識して飯を食ったりしないだろう。死を間近なものとして生きた。

だがそれはどんなふうに生きても同じである。

感じているかいないかだけの違いである。

死も生も同様に無価値だよな。死は別に寂しいことでも絶望することも無かった。慣れることはないけれど。

あまりにも身近にあったからだ。

だいぶひねくれた子供だったと思うけれど、日常的に死がある場所で生きるということは、どんなものも永遠ではないということを知ることでもあった。

未来を信じろ。良くなる未来を。そんなものなど信じられなかった。明日生きているかどうかもわからないのにどうやって?

自分に使われる社会保障費は、もっと可能性がある人間に割り振ってほしい。やれることがないから、読書くらいしかすることがない。

となると、自分が他人の労働で生かされていることを知るわけだ。

自分に使われる医療費でどれくらい確実に助かる命があるのか。食料は。教科書は。

一体どれだけの人の生活を改善できる?

お前の命にそれだけの価値があるといえるのか?まあ、言えないよなあ。最大多数の最大幸福は理にかなっていると思ったものだ。

無意味さと苦しみしかないと人間は無感覚になる。ニヒリズムに陥る。

小学校上がるくらい前にこうなってしまうのだから病気というのは恐ろしいものだ。

こうなってしまうと、共同体の感覚は養われない。

苦しみと無意味さと戦うことで一日が終わる生活では、他者の存在というのは希薄になる。

教育の究極の目標は市民を作ることだろうが、市民になれなかった。共有する価値観を持っていない。

ある種のフリークスといってもいいかもしれない。

幸い日常生活できるようになったものの、いろいろな制限があった。

叔父が音楽を演奏する術を与えてくれたことで、健康な同年代の人間と交流できるようになった。

はじめて他者を発見したといえる。

ただ、それでも苦しみが日常にあるわけではない人間と自分との距離はあった。しかたないなと。

なぜ、理解してもらいたがるのだろう?健康な人間と不健康な人間では世界の捉え方も考えも全く異なる。なぜ、完全を求めるのだろう?わからない。

こんなにも不完全で不安定な世界で生きている。君や俺の幸福など1秒先にはなくなるかもしれない。

落ち着けるのは音楽を聞いている時と読書。ドラムを叩いているときだけ。

ずっとブラック・ミュージックを聞いて育った。ジャズ、ブルース、ファンク、ソウル。

自分が好きな音楽を知りたいと思う。そうやって言葉を学んだ。

環境的に学びやすかったことも幸いしたのだろう。

ブルースに特に影響を受けた。

ブルースマンは共同体に属さない個人だ。悪魔の音楽と呼ばれたのはよく分かる。教会というコミュニティから外れているわけだから。どこにも居場所がない個人。まるで宇宙からの音楽のように思えた。

ブルースは徹底して個の音楽だ。

街から街への旅ぐらしだったり、恋人(へ)の裏切りなどの報われぬ愛。痛みを和らげるための酒、薬。絶対的な孤独。つかの間の安息。怒り。逃亡。放埒に生きて旅に死ぬ。

身の回りのことがブルースのテーマだ。一つ所に落ち着くことがない放浪で一生を終えるブルースマンたち。子供心に旅を栖としたいと思ったことを覚えている。

苦しみがあるなかで、絶望しつつも生きる個人がいた。周囲の人間は理解できない。が、ブルースの世界で生きている人間の喜びと苦しみは共感出来た。

確かなものがないことだけは確かだよなあ。馬鹿な子供にもそれはよく理解できた。

ずっとここにはいられないんだ。どんな好きなものでも永遠なんかはない。

遠く離れた日本で、時間的にも昔の音楽がひどくリアルに感じられた。自分と同じ人間を発見した。他者だが、仲間である。

エイリアンが人間に擬態して地球に住んでいる。そんな思いにとらわれることがあった。

自分は本当に人間なのか?馬鹿げた妄想である。

どこで、皆愛を理解したんだ。今でもわかってないのかもしれない。

ブルースで歌われる登場人物は、同級生なんかよりずっと近い存在に感じられたのである。

愛していて待っている女性がいるのに他の女性のところに行く。破滅するとわかっているのに酒と薬に溺れる。コントロールできない自分。ままならない苦しみ。

他者を理解できない苦しみ。すべての苦しみは人間が人間であることにあるのではないか。

それならわかるかもしれない。

ブルースマンの痛みを理解することは出来ないが、痛みを持った個人であるところには共感できる。

自分と異なる他者と感情を共有できることを知った。だから、違うことは本当に重要なのだ。他者がいてはじめて自分という人間が理解できる。

自分と同じ考え、物の見方の人間だけを見るのは、世界に無限に自分を敷衍しているのと同じだ。それこそ本当の孤独ではないのか。

信じることは、自分の無力さを受け入れて、理解できないことを認めることなんだろうよ。

信じると言った時点で、わからないことを認めるということになる。単に思考停止していることではない。

歌詞の中のブルースマンはそうやって生きてるように思えた。人がどう解釈するなんかどうだって良い。自分が学んだのは自分自身に忠実にということだ。

信じることを長く理解できなかった。信じることはただ、完全を求める病だと思っていた。

不完全な自分、不完全な世界でそれでも選択すること。それが信じることなんだろう。

何度も絶望して人に裏切られ、人を裏切る。でも、生きる。最後まで自分であること。ずっと考えてきたことはずっと音楽から学んでいたことだった。文章にしたらなんてことはないのだけれど。

エイリアンがはじめて他のエイリアンを見つけた。宇宙で自分しか種がいない生き物が、地球上ではじめて仲間を見つけたようなものだ。

自他の分離ができないところに自由はない。信じることは自由を奪うものではない。

ここには居場所はないかもしれない。でも、仲間はいる。空間は離れていても。たとえ時間が離れていたとしても。

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