ここのところ連日、病院に行っているので、仕事は進まないが、ブログは進む。
疲れていると、食事が疎かになる。
いかんなと思いつつ、飯を作ろうかと思ったら、ヨーグルトの賞味期限が切れていた。
仕方ないので残っていたバーボンを流し込んだ。
タンドリーチキンを作ろうと思ったんだが…
ふと、絶望に賞味期限はあるのかなと思った。
あるのだろうな。
どうしても得たいものがあった。
他のどんなものと引き換えにしても得ようとしたものがあった。
まあ、妄執だ。
思えばこの妄執こそが自分そのものだった。
それが得られないとわかった時。
可能性がゼロになった時。
確かに絶望したのだ。
ただ、その絶望ですら今は同じ強度を持っていないのだ。
苦しみは、消えはしないがずっと残っている。
絶望するほど自分にとって重要だったものが、もはやそうでないのは、かすかな悲しみがある。
悲しくないのが悲しい。ハハハ。歳を重ねてもセンチメンタルなことだ。残っているバーボンを飲みながら考える。
アルコールの残り香のような悲しみ。酔いが醒めたら消えてしまう。これだっておそらく忘れる。
悲しみや怒りがなければ一歩たりとて進めない時もあった。それだけが自分を駆り立ててきた。
絶望にすがってなかったか?
否定はできない。
絶望の賞味期限は希望の賞味期限でもあった。
冷蔵庫を片付ける。希望も絶望も手放して生きていく。そう自分は選択したのだ。
主体的に生きる。
俺は希望の奴隷にも絶望の奴隷にもならない。先に何が待っていたとしても。何もなくても。
コメント