もういちど無理ない暮らしについて考える
この一年いろいろ実験してきて、自分のテーマは無理ない暮らしを送ることだと実感した。
ブログのタイトルやろって言ったらアカン…
これは適当に決めた名前、一人ブレストやって、この名前がいいかと思っただけで大した理由はなかった。
まあ、自分の生活がとても無理ない暮らしではなく、無理しかない暮らしだからだから、憧れがあったということだろう。
無理ある暮らしとは
無理ない暮らしを考えるには、対極のものを考えるといいだろう。
生老病死からは人間は逃れられない。
自分の場合は、事故と持病が大きい。日常生活に常に痛みがあるというのは苦しいもんである。
老いもそうだ。
やろうと思えば出来るというのはすでに老いているということ。
昔なら苦もなくできたことが意志の力を伴わないと出来ない。
意志力は有限のリソースだ。
残酷なことに意志力はどんどん失われる。
生活にかかるコストが大きい場合も無理がある暮らしだろうし、逆に切り詰めて生存は確保されても、心に余裕がなければ無理がある暮らしだ。
収入を増やそうと働いて、可処分所得は増えたが、可処分時間が減るのも無理がある暮らしだ。
単純に考えると、これら全てには時間が関わっている。
苦痛な時間が少なく、快適な時間を増やす。
おそらくこれしかない。
この一年いろいろ考えながら過ごしてきたが、永遠の無能の二つ名を持つ自分である。
先人たちが考えた以上の結論は出なかった。
考えるだけで結論が出ないなら、挑戦するしかない。
実験した
この一年間特に意識して記録をとってみた。
4月から雲行きが怪しくなってきた。
このあたりで、仕事上の大きな転機があった。
例年並みの出張ペースにもどっている。出張中でもAbleton PUSH2は持っていった。教える仕事の比重が増えた。
7月は月の3/4くらいが出張だった。無理ありすぎ…
死にそうだった。移動しまくり。移動中に記事を書きまくった。
仕事が増えたのに加えて、法人の清算しなきゃいけなくなりメチャクチャな生活になる。このときはブログは終わりだなと思っていた。このあたりから、ムキになってブログを毎日書いていた。無理ありまくり。
それなのに動画をとったりしていました…
主治医に「うりなみさんは、世界一働く病人だね!」とのパワーワードを頂く。
むちゃくちゃだったが、音楽の時間だけはなんとか確保した。
無理だらけ。無理しなかったら1ミリも状況は好転しないので、無理やり動いた。
後でツケを支払うことになるのは目に見えているのだが、やらざるを得なかった。
ただ、忙しい中でも音楽をやる時間を作った。痛みや苦しみがあっても音楽があれば前進している感覚は味わえることが改めてわかった。
限界超えてますがな…
でも、自分がやりたいことは、自分だけではなく、皆が無理なく音楽できる環境を構築すること。
あれだけ集団を嫌ってきた自分が得た結論がこうだった。
無理ない暮らし
どんなに望んでも、自分の望むようにはいかない。
それはおそらく仕方ないことなのだ。
でも、無理がない暮らしというのはどんな状況でも可能ではないかと考えられるようになった。
無理がないとは限界がないという意味がある。
限界がない暮らしというのは、実際のところ不可能だ。
時間的にも、金銭的にも、体力的にも限界はある。
だが、確実に終わりが見えても出来ることはある。
自分は、無限の可能性を求めているわけではない。
生まれたときから自分の可能性は限られていた。
自分が取り戻したかったのは主体性だ。
結局、これは、好きなものが何かということなのだ。
自分が熱狂できるなにか。これがあれば主体性は持ち続けられる。
病気や怪我を自分の人生の全てにしない。自分の人生の多くが苦しみとの戦いだった。
出来ないことがわかっていても突き進むこと。
今更、事故する前の能力に戻るわけではないし、一生服薬は続けなければいけない。
体はどんどん利かなくなっていっている。終わりははっきりと見えている。
事実は何も変わっていない。
だが、精神は自由を得た。
可能性が固定されるのが絶望だとしたら、自分は絶望に勝ったと思う。
自分からドラムを奪うことは誰にも出来ない。
まさか、自分がフィンガードラマーになるとは。
リハビリでのたうち回っていた18のときには想像できなかった。自分から音楽を奪うことは誰にも出来ないのだ。自分自身すらからも。
生きてみるもんだなと思う。
ここからの無理ない暮らしは、自分以外のことも考えていくことになる。
自分だけでなく音楽を生活の一部にしたいという人の環境を作る助けをすること。
情報だけでは、音楽を続けることはできない。仲間が必要だ。ゆるい連帯を作る。
自分の一人の力ではとても足りない。
だが、自分が行動を起こすことで、少しずつ何かがつながるのではないかと思う。
PUSH勉強会やパッド研究会はそうやってやっていこうと思う。
気がついたら、自分がやろうとしたことは全部つながっていたということだ。
集団というのが嫌いで、個の力でずっと突破しようとしてきた。
だが、自分も老いた。自分の幸せは自分だけが良くなることでは達成できないということだ。
フィンガードラマーには強い仲間意識を感じる。
病気やリハビリしている人は同族だと思う。
痛みを抱えても音楽はできる。
進歩し続けることは出来る。
ちょっとでもまともな人間になろうとすることは出来るのだ。
だから、あらゆるコストと戦う。
情報を発信することもそうだろう。いくらでもやれることはある。
やれることはまだまだあった。
前のめりで死ぬための心を持つこと。
それが自分の無理ない暮らしだと。
一年間ありがとうございました。
今後は、フィンガードラムの普及やPUSH勉強会など皆が音楽を続けられるような仕組みづくりに力をいれていきます。
皆さんの暮らしが、無理ない暮らしでありますように。
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