怒りの原因は自分の中にあること | 無理ない暮らし
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怒りの原因は自分の中にあること

無理ない暮らし
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なんとか今年度は乗り切った。限界を超えないと思っていたのに、今年度は最後に無理に無理を重ねて限界を超えてしまった。何度繰り返すんや…アホすぎる…

今年度は自分で仕事をしてから初めて完全に1人で一年を通したということもあるんですけど。

疲労が問題であるということはずっと考えてきたけれど、本当に深刻です。

ちょっと考えをまとめておきたいので書いておきます。自分へのメモ。

何が嫌なのかを考えた

疲労はずっと問題でした。とにかく自分は体力がない。持病があることもありますけど、すぐ疲れてしまう。おっさんなのにもやしっ子なわけです…

去年の2月にひどく体調を崩してからは本当にきつかったですね。

回復はしてきたけど、秋まではとにかく厳しかった。

この一年は自分でも認識できるくらい抑鬱的でした。

まずはいちばんキツくなってしまった仕事から考えます。

今の仕事は、コンテンツ作成と受験生を教えること。コンテンツ作成は講義動画作成から、映像、音声教材作成までいろいろ。音楽周り、効果音なんかつけるのもやってます。

レッスン系もそうですね。翻訳は完全にやめたわけではなくて、昔からの仕事でどうしてもいう時だけはやっています。仕事の量はかなり減らしました。

何でもやって糊口を凌いでいます…

収益で一番大きいのは受験生を教えることなんですが、これにもうほとほと嫌気が差してしまった。

授業をすると考えただけで、めまいがしたり吐いたりしてね。いかんですね…

嫌になってしまった原因を考えると、結局のところ、自分の最上位の価値観と反している仕事になってしまったから。

個人を尊重するというのが、GTDでいう高度リストの上位に自分の場合はあるんですね。

連絡をしない、記録をしない、嘘を付くということが今までもなかったわけではない。一番絶望するのは、自分で自分を尊重しないことすら生徒が気づかないようになってしまったことですね。

もう、手立てがない…

今までの生徒たちとは全く違うレベルでひどい状態だった。コロナで今までの高校生が学んできたことを学べなかったのもあるんでしょうね。勉強が出来ないのはどうでもいい。出来るようにするのが仕事ですし。

いままではそれでもなんとかしようという熱意はあったし、変わりたいと思う生徒に時間を費やすことは嫌ではなかった。

でももう、そうは思わなくなっちゃいましたね。無駄な仕事と感じるようになってしまった。

突き詰めて考えていくと、自分はコストは問題にしていなかったということでもありますね。ビジネスとしてやっていなかったと言える。あかんな…

自分が辛いことは、今、仕事と家事。嫌なことを詳細に見ていけば、必ず対処の方法はあるはず。

疲れは楽しいことですら苦しいものにさせる。

ここまではわかってましたけど、問題は自分が思っていたより根深いみたいですね…

楽しいことが楽しくなくなるのは疲労。なぜ、疲れるのか

自分の能力以上のことをやっているからだと思っていました。無理していれば疲れるのは当然ですよね。

体力がないのが辛い原因としては一番大きい。そして価値観と相反しているから辛いのも間違いないです。

もちろんそうではあるのだけれど、自分が疲れるような思考の癖があることが大きいのではないかと思っています。

とにかく怒りで疲弊しました。


怒りは外に原因があるわけではない。怒りは常に自分が認識するものですからね。

原因は自分の中にある。ということは、自分の思考次第で解決出来るかもしれないですね。

もしくは思考が変えられないなら、そうならないような状況にすればいい。

考えを進めます。

自分は、他者とのコミュニケーションに極端にコストが掛かるのかもしれない。というか掛かるようになったんでしょうね。

いま疲れてるからですかね。ちょっと思考が自動的になってるのはなんだろうかと考えると、コストが問題なように感じるので、つらつら考えてみますね。

喋るのが仕事の多くの部分を占めている。喋るのが苦手と思ったこともないから、全く気づかなかったです。

昔は今より体が悪くなかったから、そんなこと考えたこともなかったんですけど。

なぜ、他者とのコミュニケーションにそんなにコストを感じるかと言うと、結局、体力の無さが原因ですね。卵が先か、鶏が先かということになるんですけど…

体が悪いということは、決められた時間に動くのが非常に厳しいですしね。薬の効き方も日によって一定というわけではないですし。

時間が決まっているものをやるのは細心の注意を払って体調や気持ちを持っていかないとできない。予定の変更がすごく難しくなった。

体力の無さや、自分の状態を説明するコストを掛けることもしんどい。相手にもコストを払わせることになりますしね。

コミュニケーションを取らなければ、他者が理解できないにも関わらず、そのコストを支払うことが出来ない。どん詰まりや…

それなら、自分でやってしまえとなる。まあ、自分の価値観の上位にある主体性を失わないというのがあるからでしょうね。自分という人間のOSのバグみたいなもんです。

で、更に疲労を溜め込むわけです。ボンクラなくせに自分の満足する基準が高い。己を知らないといけませんね。うう、恥ずかしい…

コミュニケーションに極端にコストを感じる時は疲れている。

そして、疲れていなければ、コミュニケーションは苦痛ではない。体調が悪い時はいかに自分という人間の本来ある状態から遠くなるかということですしね。

となると疲れない方法をもっと突き詰めるしかない。

困ってるからなんとかしてと頼まれたら、いろいろやってしまうのは変えられない。

けれど、もう、それはできないし、しちゃいけないですね。限界を超えて今後生きられるとは思わない。

残り時間が豊富なわけではないのだから。

だから、疲れそうなことから離れる。

体力的に余裕があるときに、何かに怒るかといったら、怒ることはほとんど自分はないことに気づきました。普段、自己と他者の分離は出来ている。まあ、もちろん理不尽さに怒ることはあるんですけど、そうでないことで怒ることはない。人は人ですし。

こんな簡単なことなのに気づかないのは、我ながらレジェンド級のボンクラやな…

自分のベストの状態は、他者に期待しないこと。他者に怒りの感情を覚える時は、自分がおかしいということですね。立ち止まらないと。

怒るなら去ればいいだけですしね。そこに固着するのは、どこかが狂っている。自分のルールを徹底できない時はおかしい。


もう少し、他者に期待しないことが自分にとってなぜ重要なのか考えてみます。

他者に期待しないことがなぜ、自分にとってベストなのか

主体性を持つということが自分の価値観の上位にあるんだから当然ですね。


そもそも、自分と別の存在である他者が自分の考え方を理解できるはずもない。わかると思ったらやばい人ですしね…


自分にとって価値があるものが、他者にとっても価値があるということはないですし。

根本的に相互理解というのは不可能だし、部分的な理解でいい。
自分の価値観だけで物事を判断するというのは、自分がもっとも嫌ってきたことの一つ。自分にはわからない世界があるということは、多様性があるということですしね。

じゃないとファンキーではないじゃないですか。わけがわからないからこそ面白いことってたくさんある。そういうものにたくさん力をもらってきた。

相手にしてほしいということは、相手にそうなってほしいということ。そうなると相手をみてるんじゃなくて、自分を見てるのと同じことですしね。

無限に自分を敷衍するって、気持ち悪い。

それ、「人は人」というやつですよ。期待しないと言う言い方は適切ではないですかね…

期待はするけど頼みにはしないということの方がしっくりきますかね。

自分の価値観を人に押し付けることは絶対にしたくない。

それなのにわかってほしいというのはそもそも矛盾してますよね。シンプルではない。

クレージーですね…恥ずかしいわ…

こんなおっさんになってるのに、自他の境界線が薄くなってますね。こんな幼児性があるとは思わなかったです。体はおっさん、心は幼児である。バブー!

嫌すぎますね…

他者は変えられないが、自分は変えられる

他者を変えたいと思ってはそれは無理なことだし、普段ならそんなことは思わない。

長所と短所は程度でしかない。気遣いはおせっかいになり、寛大さはいい加減さともつながりますし。

そして、その多くは自分の状態で感じ方が変わりますしね。

視点を変更する。視点を変更できないなら、思考が自動的になる方法を避ける。いつも考えていることを徹底しないとちょっとこの状況から抜けるのは難しい。

人を尊重するということは、孤独を内包すること。他者を尊重しつつ、主体性を手放さないことは出来るはず。

では、どうするか

どうしましょうかね…

まず、働くのを中心に考えたら駄目ですね。

疲れる原因は仕事。

だから、仕事をしてはいけないのだ…

いや、ロジカルに考えるとそうだけどそれじゃ、生活できませんよねえ…

今まで、いろいろ落ち着いてから少しずつ無理がないようにしていきたいと思ってました。

経済的な制約があるから、働くことが前提だった。少しずつ仕事も縮小はしてきた。仕事のバランスもここ数年で変更はしてきた。

受験生を教えることは、自分にとって長くやってきたことで、得意なことだと思ってきた。食べるだけなら体が動く限りはできるだろう。

でも、世界も人も変わる。もう、嫌な仕事になっちゃったんだよな。残念なことだけれど、終わったことを考えてもどうしようもないですしね。

今までも、方向転換はしてきたわけですし。

疲れる仕事だから休みを増やして対応しようとしてきた。でも疲れるということは、もうしてはいけないということ。

疲れても楽しいならいい。

でもただただ辛いのは治療費稼ぐために生きてることになっちゃいますしね。薬を飲むために生きている。主体性を無くしているという意味ではジャンキーと変わらないことになってしまう。

それなら生きることをやめてしまえという結論に容易になってしまいますからね…

苦しみをただ繰り返すだけ。可能性がなくなることが絶望なわけですから、そうならないように考える。

自動的になりがちということはよくわかっているのだから、そういう状況を徹底的に避ける。その方向で行きましょうかね。

やる気や思考能力は有限のリソースなんだから、うまく使えるようにする。能力の向上は難しいけど、仕組みでカバーできることはあるはず。

今年度は酷かった。たったこれくらいの文章を書くこともなかなか出来なくなってしまいました。

いつも頭の中がスッキリしない。加齢ももちろんあるでしょうけどね。この状態が普通になるのであれば、もう、今までの働き方は出来ないということですね。改めて書いてみてスッキリしてきました。

何か工夫してうまくやるのではなくて、そもそも疲れないような仕事にシフトしていく。

できれば楽しめる仕事で。和歌でも詠んで暮らしていたい…

貴族に転職できるサイトとかないですかね…情報、お待ちしています…

人と喋らない仕事なんか、やってないから楽しめるかもしれんな。

もうちょっとしっかり考えてみたいと思います…

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