愛について考える



愛する技術という言葉がふと浮かんだ。愛に技術という言葉が加わると違和感がある。

違和感の原因をもう少し考えるために「愛する」を受動態にしてみよう。

愛される技術となる。

さらに違和感を覚える。

愛する技術より、愛される技術により違和感をもつのはなぜか。

それは、愛は自発的なものだと自分が捉えているからか。

で、軽く絶望するのだ。

あらゆる価値の中で最上に置かれる愛って、自発的なものでしか成り立たないんであるなら、学べないよなと。難易度高すぎである。無理ゲーである。

そして、技術であるなら学べるかと言うと、学べるような技術であるなら本当の愛ではないのではないかと言う疑いが生まれる。まじ、難しすぎるやろ…

本当の愛ってなんだよって思うが、自分の違和感と対話すると愛という言葉の厄介さが浮かび上がるのだ。

愛のための戦争。

愛のための裏切り。

およそ最上位に置かれる徳目であるのにも関わらず、他の倫理を超える事をしても愛なら許されるかのような言説は多い。

よく考えると、非常に異質なのだ。愛は。

どんな徳目も、根底には所有権の尊重があるんではないかと思っている。

相手を傷つけるな。それは、相手の心身は相手が所有しているもので、それを侵害してはいけない。単純化するとそうなんだろう。

所有権があるから怒りもあるわけだ。私の心を害した。だから怒る。

無数の所有権のぶつかり合いが、世界中で起こっている。

愛は奇妙だ。時に自分の命を差し出すような形もある。自分という主体が消えてまで、強く相手を尊重する感情。

強さで愛は定義できるのだろうか?

考えてみよう。

ストーカーになってしまうのは愛なのだろうか。

愛じゃないだろう。

好意の強さでこれは愛だと定義するのは難しそうだ。

その違いはなんだ。

ストーカーになってしまう人と、自分の命を差し出す人は、相手に対する非常に強い思いというところでは共通しているわけだ。

何が違うんだろうか。

これは、相手の存在が自分より大きくなることなのだろう。

相手の存在が自分より大きいから、執着するかもしれない。

さらに考えを進めてみる。

ストーカーする人の行動は愛なのか。

相手の感情を自分のものとして感じるかどうかの違いはあるのではないか。ストーカーする人は、相手の感情を尊重していないといえる。

では、ストーカーしない人の愛はどういうものか?

相手の感情そのものを自己のものとすることなのだろう。

そうするとこれも所有権に端を発していると言えるのかもしれない。

スポンヴィルは、愛を考える時に、礼から考えていた。礼義とは何か。相手の所有権に対する尊重である。

となると、愛というのはまことに矛盾したものであるだろう。

相手を尊重する礼からはじまりながら、相手の感情そのものを自分のものとして感じるのは所有ではないのか。

ただ、わかってるのは彼女が買ってきたシュークリームを全部食べて、「これも愛」と言ったのは所有権の意味でも間違っとるという事である。

礼義のレベルでもダメです。

まあ、そういうこと言ったら、

「うーは、そんなに甘いもの好きじゃないから、思いやったよ…相手のことを思う気持ちは愛」

「シュークリームが大好きな私のこの想いは紛れもなく愛」

など一休さんばりの弁舌をかましたので愛について考えたのである。

無敵やな。君…

愛は難しいけれど、みんなが楽に暮らせると良いですね!











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