無駄についてさらに考える

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無理ない暮らし
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無駄については以前でから考えてきた。ちょっと考えが深まったので忘れる前に書いておく。
より楽に生きれるだろうし、意思決定の時間を短縮できるだろうから。自己との対話。

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無駄について考えると、自分にとっての価値とはなにかを考えざるを得なかった。無駄というのは自分にとって価値があるかどうかである。無駄かどうかは人によって違う。

無駄遣いがなぜ嫌なのか。

使わないものを買ったことがなんで嫌なのか考えると、主体性を失うからだ。

何故か。

金銭≒時間。金銭は労働などで得られる。

金銭を得るために労働している時間はそれ以外に用いることができた時間なので、結局のところ主体性を失っているということになる。

やってきたことが無意味だったと思うことは苦しい

人間は損失に大きく反応するように作られている。だから主体性を失ったということが苦しいのは当然だ。

やってきたことが無意味だった思うことはなぜここまで苦しいのか。

主体性を失ったということだが、その重みが違う。

ずっとやってきた仕事に熱意が無くなった。

サンクコストである。

現時点で主体性を失っている。その上に、失った時間を使えば、より自分が望む状態にもっていくことができたわけだ。

しかし、それはかなわない。現在も苦しいし、過去のことも苦しくなる。

サンクコストは経済学的には捨てることが最も合理的になるが、それだけができることなのか?

苦しくなるなら、苦しくならない方法に転換する

苦しみを苦しみでなくするには2つの方法がある。一つは否定するアプローチ。いかなるものも価値がないなら苦しくはない。

煩悩は欲望から生まれる。仏になるというのは、人間であることを捨てること。欲望は生きる原動力であり、これを捨てる方法は採用しない。

苦しみと抗するために多くのことを捨ててきた。捨てた先に、主体的に生きることは自分にとっては難しい。行き着く先は、自分を捨てることになる。

絶対的な何かに帰依することはできないのが自分であるならば、無様でも考えるほかない。

無意味さ、無駄さに抗する方法はある。もう一つは肯定すること、好きなことから考えるアプローチ。

今までのことが生きるように変えることだ。今までの経験が生きるなら、コストは減らせる。

経験というのがすべて資産と考えるのなら、無駄はそもそも存在するのか。最後まで前進し続けると決めているなら、無駄はない。資産というものは富を生み出すものと定義するならば、自分にとっては考えるツールを増やすものはすべて資産だ。

どんな状況下にあっても視点を変えること。リフレーミングすればいい。


コストを減らせるということは、主体性を失わないことだ。自分がいまやりたい方向に向かうように経験を使えるということになる。

未来は変えられない。定まっていないから。
だが、過去を活かすことはできる。今までずっとやってきたことだ。

仕事は結局無駄だった。疲れているからなおのこと強く感じる。

過去が無駄だったとは思わないが、少なくとも今年一年は無駄だったと感じている。

連絡をしない、時間を守らない、嘘を付く。

なぜそれがこんなに嫌だったかと言うと、自分は人間は学ぶことで変わることができると思っていたからだ。

自分の信念が揺らいだ。

とはいえ、教えることをずっとやってきたことで得たスキルはあるわけだし、教える対象を変えれば済む話。変わりたいと思って、自分が思う当たり前のことができる生徒だけを教えればいい。

情熱や自分にとって価値があるものが失われる方が生きる上で本当に大きな損失なのだ。いずれ時間は尽きる。

最後まで主体性を持つには、物事に価値がないと切り捨てるのではなく、自分にとって価値がある方向に一歩でも近づこうとすること。折りに触れて今までの自分の考え方を確認すること。

こんなに生きてきて、考え方が定まったと思えば、環境の変化に翻弄される。そのこと自体を嘆かない。気づくきっかけと考える。他人は変えられないが、自分は変えられる。

好きなことややりがいがあると自分が思える時間が長いことは幸福度を増やすことだ。それが失われるのであれば方向を変えたほうがいい。

好きなことややりがいがあるものを得るのは本当に難しい。失うことは本当に簡単なのに。死にながら生きるように人生の大半を使ったことを忘れるな。

残り時間がどんどん減っているのだから何よりそれを優先しなければならない。

すべてが無駄だったということはない。

教える能力は、様々な仕事で要求される。

なので、教える内容を変えてもいい。

音楽の方に再びシフトしつつあるし、少しずつ。

2年前の本当にどうしようもない状況をなんとか生き延びた。あれで無理したことでできなくなったことは確かにある。

だが、まだ出来ることはある。

疲弊すると自分がやってきたことは、無意味だった、無駄だったと思ってしまう。

何度そんな事はないと思っても囚われてしまうことはある。

だが、それは合理的か?本当にすべてが無駄だったのか?

捨てることは簡単に出来るし、そのことで達成感を得られるのも事実だ。一度立ち止まり、その考えが合理的かどうか考えろ。

絶望に対抗する方法は、熱中すること。わかっている。

考え続けること。視点を変えること。基準が自分にありさえすれば最後の一日まで前進できる。

他者に基準をおいた時点で大事なものがこぼれ落ちる。それで目的を失っていくことを本当にうんざりするくらい見た。他者に基準を置く時間はもうない。

どこが嫌なのかをしんどくても考えること。そうすれば問題点がどこか切り分けられる。
問題は定義さえできたら前進させることができる。受け入れるか他の方法をとるしかないからだ。

だからこそ深く自分の内面に入らなければならない。

無意味さを意味があるものにはできる。

同じことにしがみつかないこと、変わり続けること。

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