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なぜ失敗を恐れるのかを考える

無理ない暮らし
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なぜ失敗を恐れるのかを考える

手の調子も悪く、少し疲れも出ている。

動く気力も無い。そういうときには自分の内面に潜ってみればいい。

体が悪い人のコストを減らせるかもしれないと思って書いておく。

それなりに対処法はあるものだ。自分のやり方でしかないが。

自分は失敗を恐れるようになった。

失敗を恐れることは合理的なのだろうか?

合理的であるかについてはつらつらと考えてきた。

合理的であることは対話が可能になること
記録することは好きだ。合理的であることと記録をすることには関係がある。 仕事柄記録を取ることは好きで、パワーリフティングが面白いと思うのもそこに理由がある。 自分のものの見方は、楽観的というよりは悲観的だ。 自分でもその傾向はわかっているの...

失敗を恐れるのは合理的なのか?

失敗を恐れることは合理的なのだろうか。それとも合理的ではないのだろうか。

思考を進める時に、人間はホモ・エコノミクスだと取りあえず仮定して考えることにしている。

行動経済学では、人間の認知の歪みを指摘するが、自分は人間はやはり全て合理的ではないのかと思うのだ。

他者から見たら、合理的では無い。

だが本人にとっては合理的な行動ではないのか。

その人間の固有の条件を考えないで、合理的かどうか判断するのは不可能だし傲慢だろう。

意味は無数の文脈から生じている。

だから切り取れば、どのようにでも解釈できるから、後付の賢しさは拭えない。

失敗を恐れるのは合理的かという事をコストで考えてみよう。

一回のミスで死ぬ。このような状況を仮定したら、ミスを恐れるのは当然だと言える。

コストが高すぎる。

生命は取り戻すことができない。

多くの国で、死刑が廃止されたのは、不可逆であることを考えれば理解できる。

では、電話をかけるのが嫌だとする。

あるミーティングで、後で確認しなければならない項目ができたとしよう。

こういう場合、自分はひどく躊躇する。

何故か。

相手にコストを払わせるのが嫌ということだろう。自分の確認ミス。ミスは全てコストを生じると考えたらわかりやすいか。

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成功するには試行回数を増やすのが合理的

何をもって成功とするかは人によるだろうが、成功は試行回数と比例するわけだ。

やってきた仕事で成功と言えるものは試みたものの1%程度くらいではないか。

満足行く結果になったものは、殆どが偶然だ。まあ、自分がボンクラなだけか…

100のプランがあって、どれもそれなりに成功するかもしれないというロジックはあった。

が、なぜ成功したのかは究極的にはわからない。

成功した後で、後付けで、こうだっただろうということは出来る。

成功したもののおぼろげなロジックを繰り返して成功率がたまたま上がってきただけだ。

失敗を恐れるのは、主体性を失っているのを認めたくないから

ということは、単純に試行回数を増やせば、うまくいく可能性は高くなる。

なのに、なぜ失敗を恐れるのか。

若い頃に失敗を恐れたことがあったろうか。

そもそもの性格の問題もあるが、失敗するのが前提で行動していた。

嫌な若者だったと思うが、チャレンジして失敗する若者に世間は寛容だったことを知っていた。

失敗も気に入られることを知っていたわけだ。ろくでもないな…

自分にお金を払う人がいることはわかっていた。

が、事故の後は失敗することを恐れるようになった。なぜか。

全てに対するコストが上がった

体が悪いというのは、全てにおいてコストが掛かるのだ。

ゴミを捨てようとしたとする。

手が利かないから、物を落とす。

それを拾い直してゴミ箱に捨てる。

健康ならなんてことはない。もう一度捨てたらいい。

だが、それを恐れる。

一つの行動そのものの閾値が上がってしまうから、失敗したくない。コストが跳ね上がったということだ。

それなら別の方法を考えればいいだけだが、人間そんなに簡単に割り切れない。

合理的ではないが、動けていた時のイメージを捨てるのは凡人にはなかなか難しいのだ。

人は誰しもセルフイメージを持っている。

そこから自分が乖離しているのは多大なストレスなのだ。

克服するためにやったこと

失敗を恐れないようにすることは、残念ながらできなかった。

年齢的な問題かもしれない。

自分が若くて健康なら何度失敗しても堪えなかったはずだ。

だからといってやれないわけではない。

失敗する可能性を減らせばいいだけだ。

事故で壊れた後と、離婚した時に真っ先にやったのは家事の代行サービスを探すことと物を捨てることだった。

多くのものを自動化した。

物を少なくすれば失敗する可能性をそもそも減らせる。

物を見ればしんどいなら自分がやる必要はない。

したいことのためにお金を稼ぐというのも一つの方法だけれど、自分はしたくない事をしなくていいためにお金を稼いできた。

不快なものを減らす方が生活の質が上がると思ってきたからだ。

一つの部屋にゴミ箱を複数置くことは健康な人なら考えられないだろうが、自分にとっては重要なことだった。

行動の閾値を下げる。

お金で時間を買うということと、選択そのものを減らす方向に行ったということだ。

体が利かなくなっても、判断は出来るのであれば、それ以外のものを自動化すればいい。

自分しかできないことの価値を考え続けた。

自分にとっては、行動の判断が出来る方が、セルフイメージを守ることができた。

主体性を失わないための対応策だったと言える。

体が悪くなるというのは、自分が重要だと思っているものは何かという価値が問われ続ける。

自分が今まで同じ様に動けなくなったとしても、悲観することはない。

先人たちの莫大なノウハウがある。絶望しない技術は確かにあるのだ。

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