
目次
- 前奏
- 序章 おれがおれにいてほしいなら
パート1 新しい世界
- 1章 家族の話 (1943〜1955)
- 2章 青春話は簡潔に (1955〜1963)
- 3章 やればできるさ (1946〜1966)
- 4章 社会的弱者 (1966〜1967)
- 5章 音楽に合わせて踊れ (1968)
- 6章 連れて行きたい、もっと高くに (1969)
パート2 リッスン・トゥ・ザ・ヴォイス
- 7章 夏の日の熱き楽しみ (1968〜1970)
- 8章 人は皆、誰もがスター (1970〜1971)
- 9章 おれ、笑顔だったろ (1971〜1972)
- 10章 いずれ (1972〜1973)
- 11章 するって言ってくれ (1974)
- 12章 スモール・トーク (1974)
パート3 思い出せ、自分が誰なのか
- 13章 クロスワード・パズル (1975〜1979)
- 14章 ファンクはより強靱に (1980〜1983)
- 15章 クレイジー (1984〜1986)
- 16章 変革の時 (1987〜2001)
- 17章 闘病 (2001〜2011)
- 18章 もしこの部屋が晴れたなら (2012〜現在)
- エピローグ
- ディスコグラフィー
- 謝辞
- 索引
- Musical Discography
読書メモ
スライが亡くなった。いずれ来る日とはわかっていたけれども。
スライ自らが自分の人生を振り返った本。ディアンジェロもなくなってしまったし。
スライが思っていたより深くBobby Womackとの交流があったのがわかったのは興味深かった。

Billy Prestonとの交友なども。

George Clintonとの関わりはもちろん知っていたけど。
マイケルが、スライにお金が入るように過去の著作権を買い取ろうとしていた事や
買い戻せるようにしていた事は知らなかった。
The Beatlesのカタログを買ってたりしたから、著作権についてはマイケルも良く知っていたか。
買い戻せる時の条件がなかなかに愛が深かった。
スライが素面の時にと言う条件でというのはなかなか出来る事ではない。
これだけ愛されていて、本人も最後まで創作意欲を失っていなかった事を考えると、後半生からの人生が、いかに薬で人生を浪費してしまったかを感じさせられた。
スライほどの才能がこんな人生を浪費することがあっていいのか。
特に薬物について印象に残っているのは436ページの、特に薬について書いてある一節。
ここからそこを抜き出しておく。
そんな中、薬物のおかげで深く考え込まずにいられた。 今だ、35にしてなお、40にしてなお、借家ずまいで小遣いまでもらっている体たらくで、 本当の意味でまるで自由になれていないという無様な現状について深く考えずに済んでいた。
とはいえ、もっと早くにやめておくべきだったのは間違いない。
もっとずっとずっと早くに粉も粉末も減らして、塊もパイプも減らしていれば、 合計したそれこそ何年にも昇るに違いない膨大な数の日々をドブに捨てずに済んだかもしれない。
スライに関しては、奇行というイメージやコンサートをすっぽかしたという風な話は、今まででもたくさん書かれているので、薬が原因だったのだろうと思っていた。
が、 プロモーターにはめられたというスライの言い分がどこまで本当かはわからないけれども、幾分かの事実はあるかのように思われる。
後年まで自分に入るはずのお金もなく、人に頼る生活というのはどれだけ苦しかっただろうか。
頭脳が明晰な人で、博覧強記な人であったんだなというのも改めて読み直して感じた事だ。
音楽が全てを語ってはいるけれど。
リズムに対する考え方も。
スライの最も評価が高かったドラマーはアンディ・ニューマークで、In Timeのドラムは全部、スライが歌ってアンディ・ニューマークに叩かせたとの事。三次元的なリズムの組み方はスライほどやった人はいなかったんじゃないか。
Chirs Jasperなんかは研究したように思える。ドラムがEarnieで技術的な限界があったから鍵盤とドラムで工夫したのかもしれないけど。ファンクでスライの影を感じないないことなんかないのだけれど。
普通ならクリックとしてドラムマシンを使うだろうがと本人もその革新性に気付いていた記述もあった。
アンディ・ニューマークの代表的なプレイとずっと思っていた。マイルスバンドでコピーさせられた気の毒な人は誰だろうか。
あとは自分でもドラムを叩いていたのか、音源からはちょっとわからない。
けれども、やっていたと言われても、驚きはないというか。まあ、当然、叩いただろう。
本当の意味でマルチプレイヤーだったんだろうなというのは伝記のそこかしこから伺われた。
評伝ではもともとギタリストで、バンドを始めてから鍵盤を始めたとあるが、家で鍵盤はあったと言う事がわかった。まあ、そりゃそうか。
大学でウォルター・ピストンの勉強をしていたのは、時代を考えたら、納得も出来るのだけれど、Higherの録音の時にウォルター・ピストンの本を数冊持っていったと言う点にはしびれた。スライと同じ教科書で学んでいたと言うのは、嬉しい事だった。
発表されてない、80年代以降のスライの音楽も聴いてみたい。墓荒らしにならない範囲で。
ギター、ベース、鍵盤までは自分が演奏しているのはわかっていた。
が、ドラムも実際には叩いていたらしいというのは良い発見だったか。
みんながスライを放っておけなくて、そして支えられたからなんとか生きていただけで、こんな年までこんな生活で生きていたというのはある意味信じられないことでもある。
最後に晩年のスライが語ったところを抜き出しておきたい。442ページ。
ただ、これだけは知っておいてもらいたい。
俺もみんなのことを今も思っているし、みんなが俺のことを今も思っていってくれることには感謝しかない。
俺と俺が作った音楽を覚えていてくれてありがとう。 目を向けるべきはそこだ。
俺の人生はいつでも悠々自力というわけじゃなかった。
それどころか、数々の健康問題に加えて、あれやこれや様々な重圧にのしかかられてきた。 金絡みとか、法絡みとか、いろいろと。
けれど、時間はその一部を連れ去ってくれた。 たとえきれいさっぱりではなかったとしても減らしてはくれた。
それにそう、これは忘れちゃいけない。 人は誰でも自由なのだ。 自らがそうありたいと望む限り、自らの心の中では少なくとも。
自分の価値観の多くはスライに作られたんだと言う当たり前の事に気付かされた。
ずっといて欲しかったよ。
家の近くまで行ったことを思い出した。スライに会いたかったわけではない。スライがまだこの世に存在するなら、なんとか生きれるかもしれないと感じた。いや、会いたかったんだろうか。
そんな日も遠い昔となってしまった。
あまりにも感じることが多く、あまりにも思うことが多いので、全てを書くことはできない。
折りに触れて追記したい。
独特の読後感が残った。
スライという人となりが、非常に伝わる丁寧な仕事だった。
表伝などと比べて、 独特なその思考様式、社会への物の見方、そのスライの眼差しというのを知れたのは、嬉しかった。評伝は評伝で、レコーディング技術的には驚くべきことが書いてあったりするのだけれど。

スライと言う人間性なしに、スライの音楽は成り立たなかった。この当たり前の事を痛烈に感じた。
作品と本人を切り離す読み方は意味がない。少なくともファンクでは。
スライが何を考え、感じていたか。
その当時の、やっぱり生きた人間じゃないとわからない視点というのはやはりある。
訳文が素晴らしかった。
スライという人格がはっきりと伝わってくる。
そして今までのインタビューと齟齬がないように、訳文を作るのは大変な事だったと思う。スライが隣にいて、ずっと話しかけてくれるような読書体験だった。
自分にしてくれて、ありがとう。

