住む場所を変えて無理ない暮らし
気管支炎がなかなか治らない。
部屋が病院に近くてよかった。待ち時間の間は部屋で横になれる。
病院の近くに住むために引っ越したのは間違いではなかった。病気のときに実感するのはなんだが。
生活する場所を決めるのは、思ったより重要なことだと思ったので、ちょっと書いておく。自分がまた引っ越しを考える時に参考になるだろうから。
生活する場所を決めるのは、無理がない生活をするため
在宅でできる仕事にしていこうと思ったのは、なにか大層な理由があるわけではなかった。
事故と病気で今までと同じ働き方ができなくなったからだ。
そのときこう考えた。
- 怪我の後遺症や病気がある以上、長生きはできない。
- 一日の活動時間に限界が生じる。できることが減るし、休まないとダメな場合も増えている。
- 通勤が厳しくなる。一日に使える時間が少なくなった分、通勤時間を減らすことは寿命を伸ばすことに等しい。
- 体調が読めない分、人に決められたスケジュールで動けるかどうかはわからない。
- 服薬の時間を守れないくらい仕事をしなければいけないのはまずい。
- この先、ここで働いて仕事量が減ることはあるのか?責任は増え、仕事量は増大する。
ああ、もう普通に働くのは無理だな。困っちゃったな。
そう思う一方で、ああ、もう限界まで働かなくていいんだという奇妙な安心感もあった。
自分を再定義した
今の自分の状態は何と似ているか考えた。
病気や怪我の後遺症は老いと捉えれば良い。自分は、一足とびに老人になったということだ。子供の時もそう思ったが、二度目の事故の時に痛感した。
老人は家を中心に生活する。なら、家でできるだけ完結する仕事をしていこうと考えた。消去法的な選択である。私は年季の入ったエリートクズなので、目線を低く常に生きてきたんである。
老人がみな絶望して生きているか?
そうではないだろう。
ご機嫌で暮らしている老人も沢山いるわけだ。そこから学べることはたくさんある。
みんなが老人になるころには、私は老人として相当の年月を過ごしているので、まさに老いの達人である。
肉体的な衰えは避けることができない。それなら、肉体を使わなくてもできることをできるだけ増やすように考えればいい。
学ぶことに関しては衰えはあっても、肉体的な衰えよりは少ない。まだ学べるし、前進できる。
多くのことと格闘しながら生きてきた。仕事もそうだった。
これからの自分は、時間あたりの効率を高める方法よりも、そもそもやることを少なくすることに頭を使おう。
自分を+60歳と考える。生きる時にいつも考えていることだ。そう考えた。
住む場所を変えればごきげんに暮らせる
体が悪いと病院に行くのは仕方ないことなのだ。老人だったら。病気と格闘しない。自分を憐れまない。
暮らしのコストを下げる。自分の場合は時間のコストと健康に支払うコストが非常に高くなっていたから、引っ越してよかったと思っている。
自分が好きなものに容易にアクセスできる環境というのはストレスが少ない。そういう意味では、自分は田舎暮らしは難しかった。
家の中がもっとも快適な空間であることは間違いではないのだけれど、体が弱いという制約があると常に不安を抱えて暮らしていた。
病院の近くに引っ越して、好きな街で暮らす。楽隠居とはいかないのが残念なところだけれど、自分を+60歳と考えれば、スーパー老人である。移動時間がなくなった分、寿命が伸びたようなものだ。
仕事がうまくいかないこともあるけれど、老人だから仕方ない。地球に厳しく自分に優しいんである。
明日ぽっくりいっちゃうかもしれないんだから、会いたい人間にあって、自分で料理を作って、好きな音楽を掛けたり、演奏したりして生きる。一緒に音楽をやる友達ができたらなおいい。
仕事が終わってから、ちょっとうまいものを飲み食いできたら最高だ。
できれば、今まで読んできた本ももう一度読み直したい。まあ、無理だろうけれど。
そんなことを思いながら、窓から眺める景色は美しく見えるんである。
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