ブログを書いていると面白いもので、私の調味料の分量も書いていない料理記事にコメントをくださる方もいるのである。
ええんやろうか…
コメントを下さったMさんから、無理ない暮らしのタグの記事を読みたいとおっしゃっていただいた。
そんな大層なものではないのである。
無理ない暮らしを考えていたら、結局身の回り楽しいことに没入すること、体調を整えること、前進する感覚を持つこと。こんなものかなと。ミニマルライフとシンプルライフとか、ゆとりある暮らしとかと真逆である。
おかしい…
限界を感じない(それは妄想)無理など存在しないのだという脳筋な結論に至っている。
私の頭の中といったら、フィンガードラミング、Ableton PUSH2、料理、音楽、読書、トレーニングくらいである。まさにこのカテゴリーくらいしか興味ない。
まとめると音楽、料理、読書、トレーニングしかないということだ。うわっ、私の意識、低すぎ…
仕事、しなくていいのなら1秒だってせんよ。
私は年季がはいったエリートクズなので、徹底的に意識が低いのである。クズも1日にしてならずである。
身の回り50センチくらいの興味で生きている。森を見て木を見ずと言うが、まあ、木を見ていけば森も見えるんじゃないかくらいに思っている。
もう、「フィンガードラミングは楽しい!」くらいにサイト名を変更したほうがいいんじゃないだろうかと思っていて、カテゴリーのどれにも入らないのが「無理ない暮らし」なんである。すみません…。
私は体が弱い。普通の人と比べると、出来ることが恐ろしく少ない。子供の頃からもそうだった。いくら私が阿呆であったとしても、人並みに絶望はする。
学校いけるんかな。
自分がいることが、兄弟や親の可能性を奪ってるんじゃないかな。
絶望は可能性が固定されていることなのかなと思う。
でも可能性が固定されていると思うことも幻想かもしれないと思うきっかけがあった。
それは自分には大きかった。
入院生活が長くなると、やることがなくて退屈する。病院の本は読み尽くしてしまって、珍しく親父が見舞いに来た。
忘れられないのが、デール・カーネギーの『人を動かす』とPHP文庫を大量に持ってきたのである。
自分の体も動かんのに人を動かすである。自己啓発書に対する激しい反感が生まれますわな。
時にうりなみ6歳。クズへの道は幼少期から始まるのである。
親父は自分が普通になれると思っているのかとたまらなくおかしかった。
ああ、みんなが右にいくなら自分は左に行こう。多数になるくらいなら、少数でいようと固く決意した。
人と違う選択をすると決めたら、容易である。比較することもないので、面白いものが色々見えてきた。
自分に対する期待も低いので、ちょっとのことが出来たら大喜びである。桂剥きが上手に出来ただけで楽しい。
出来ないことに絶望するのも、合理的ではない。
病気は老いが早く来たものだと子供の頃に思うようになったので、自分は実年齢+60歳くらいと考えて生きてきた。もう、こうなると人生の達人である。
水泳のマスターズなどに出場したらタイトル総ナメである。敗北を知りたい…
これくらいには調子に乗れる。愉快この上ない。少年の体に老人の心。名探偵にはなれんが人生の問題はかなり解決済みである(気持ちの上では)。
「うりなみ、もう少しやる気を出せば、随分違うぞ。若いうちの努力は無駄にならん。」など言われても、ほざくな小童くらいの気分である。無理しない。戦後の高度経済成長はわしらが支えた。知らんけど。
そして、実年齢+60歳というのは、なかなかに楽しいんである。なんせ、明日ぽっくり死ぬかもしれない。自分がやりたいことやりゃいいという強い動機付けが出来る。老いからくる自己効力感。詭弁ですけどね。
天気良くてもご機嫌。こんなものである。
自分と違って、すごい人達を賞賛する心。78歳で出来ることはしれてますからね。
まあ、方向性間違えると、自分に席を譲らんとは今時のわかものはなっとらんとかなるんで、うまい塩梅で。
進学する時も、78歳で実学とかマジだるいと思ったので、哲学を学ぼうかと思ったんですが、冷静に考えなくても間違ってますね…。
まあ、ちょっと引いた位置から物をみたら、楽しいことは無限にあるかと。私なり気分良く暮らす技術でした。
ちょっと目線ずらすと楽しいことありますよね!(無理やり)
Mさん、役に立たん記事ですみません…。今後ともご贔屓にしてくださると実年齢+60歳なので随喜の涙です。年寄り、涙もろいですからね。
