楽しむことについて考える | 無理ない暮らし
当ブログはアマゾンなどアフィリエイト広告を利用しています。

楽しむことについて考える

無理ない暮らし
この記事は約11分で読めます。

楽しむことについて考えている。以前からも考えていたことだが、ここからしばらくはバタバタして時間も取れなくなろうだから、現時点で考えていることをまとめておく。結局の所、無理ない暮らしを実現するためにどうすればいいか別の角度から見ているだけではあるのだけれど。

自分へのメモ。

今までどう考えてきたか

以前も楽しむことについて考えてはいた。楽しいということで無理やりきつい状況を乗り切ろうとするやり方ですね。どんな状態でも楽しもうとすることで活路を開こうとしてきた。いつもながら脳筋ですね…

ブログのいろんな記事に技術と銘打っているのは、技術であるならば学ぶことが出来、誰でも出来て、再現性があると考えたからです。

その技術を多く、深く学んでいれば困難な状況であっても主体性を手放すことはない。ここまでは結論が出た。

楽しくない、つまらないということは、退屈だということですね。退屈は本当に恐ろしい。残り時間が少なくなるにつれてどんどんそう思うようになりました。

究極の解決策は、生きるをやめることだと容易に結論を出してしまいますからね…

可能性が固定されることが絶望だとすると、退屈は絶望と隣り合って存在しているように感じています。つまらないと感じるということは楽しめる可能性がないということ。主体性が剥奪されてるからですね。もう、絶望までは近い。

苦痛であれ、不安であれ、対抗する方法はある。ゼロではない。実際、全く手段がないなんてことは少ない。

でも、楽しみが存在すると思えなければ、わかっていても動けないし、打開しようと思わない。

楽しみを幸福と置き換えてもいいのかもしれないですね。

いいことがあるかも。いいことがある。先にはいいことなんかないよと思ったら、生きられない。このほうがシンプルな言い回しですかね…

絶望に負けた仲間を多くを見てきました。

未だに無様に生きているのは、怒り。それと申し訳無さ。

簡単に楽な方法を選択しやがってという八つ当たりもある。

でも怒りがなかったら一歩も進むことは出来なかった一面はあります。怒りを燃料にしてこの歳まで生きた。生きてしまった。

でも、こういう生き方はもうやめたい。これもまた、自由ではないですからね。最後まで自分として生きて、死にたい。最後まで主体性を持ちたい。

私がやっているのはファンクであって、パンクではないですから。

好きな音楽と生き方は一致させたいですねえ…

先に楽しいことがないと思ってリハビリや治療を受けることは出来ない。出来る人もいると思いますけど、私は無理だった。

結局の所、「楽しむ」ということは主体性を持つということにつながるんだと思います。強制的に楽しまされるということはないですしね。

楽しむことに効果があるとわかったこと

ブログを見返していて、今の所見つけた楽しむための技術は以下のものになりますかね。自分にとってですけど。つらつら考えてみます。後で自分で読み返して考えるときの起点にしたい。

  • 視点を変える
  • 仲間の進歩を喜ぶ
  • 学ぶ
  • 自分を知る
  • 記録する
  • コストを減らす

視点を変える

普段から訓練していれば、結構ひどい状況でも楽しむことは出来るもんです。現状追認をいいことと言ってるわけではないですよ。変えようと思ってもどうしようもない状況であったとしても、出来ることはゼロにはならない。主体性を捨てないことは出来るはずです。

絶望もするけれど、訓練していれば、普段の状態に戻るのが楽になる。楽しいこと、面白いことって意識的に見つけようとしないと、簡単に忘れてしまう。

自分にとってはそうです。哲学を学んだことは良かったですねえ。

仲間の進歩を喜ぶ

仲間の進歩を自分の喜びとする。

自分が仲間と思える人が前進できたら、1mmも進歩出来なくても、嬉しい。楽しめます。これ、誰にとっても効果があるんじゃないでしょうか…

老いるということは、出来ることが少なくなること。病気も老いも同じようなものです。

まあ、老いのほうがスピードは速いかな…

老いると自分が大事なものを何か問われる頻度が上がる。諦めざるを得ないことが増えるので。

となると優先順位をつけざるを得なくなります。

だから自分がどんな人間が知らないとなかなか対応するのは難しい。

ブログで誰も読まないこんな記事を書き散らかしてるのは、自分の思考を俯瞰できるからです。

ああ、同じこと考えていたということはありますからね…

特に弱っているときは循環思考になりますし。変な話ですけど、自分が書いたものに励まされることもあるんですよ。ああ、こうやって切り抜けたのかと。

持病があるので、普通の人より早く衰えがきていると思うんですが、仲間の進歩を喜べるようになってよかった。痛みと戦うことが多かったので、自分のことしか考えられないことが多かった。

年をとって良かったことです。

生老病死はだれも避けること出来ないですしね。回避できないものがあっても、楽しめる方法はあります。

仲間と思える(自分が思うのは自由ですからね…)人の進歩を喜べるとなると、自分が楽しむ力がないときでも力が戻りますよ。自分のようにエゴイスティックな人間でもそうなった。自分一人で楽しみを探すのは限界がありますけど、仲間の進歩と考えると、それこそ限界はない。

動けなくなっても楽しめるだろうと確信しています。

だから、私は自分のためにやってるんですよね。記事を書くのも、質問に答えるのも。

なので、気兼ねなくおっしゃってくださいね。以前ほどは早くできなくなってしまったけれど、必ず書くので。お時間はいただくことになるんですけれど…簡単に書けるものと書けないものありますしね。

PUSH勉強会はやってよかった。

無料でこれだけやったのは狂気だと我ながら思いますけど…

パッド研究会ももう、以前ほどはできなくなってしまっているし、多分、できなくなる日は遠くない。でも、そこで得た知己は何者にも代えがたいです。ありがたいことです…

こういう自分が楽しみを共有できる場所を作っていくことは、大変ではあるけれど、励みになります。

仕事や家事、育児、介護、闘病、苦しみがある人ほど意識的に繋がりを作ったほうがいい。孤独は思考を硬直化させる。

痛みや苦しみを人生の全てにしないために出来ることはある。

働くことは全人的な貢献を求められますからね…

でも、仕事や家庭以外の場所があればどうか。

軽く参加、退場が出来て、どんな人間でも遊べる場所があればいい。ある場所で駄目とされたり、悪人とされても、許容されないとしても、すべての場所がそうであることはない。

人間は仕事だけ。家庭だけ。そんな単純な人間は存在しないでしょうし。

他の社会的属性を取っ払って交流できるところができれば、仕事や家庭、恋愛であれうまく行かない時でも生きられるはず。

もっと気楽にできる形に、今やっているパッド研究会も考えたほうがいいのかもしれないですね。

パッド研究会というより、無理なく音楽できるようにという方が自分がやりたいことにあってますしね。

もうちょっと範囲を広げればいいのかなあ。

このあたりは自分のコストを下げることを含めてもう少し考えたいですね。

ファンク研究会とかでもええのか。Discord使ったりすれば、ゆるく楽しめるものとか出来るのかな。ここは要検討ですね。

ブログは仲間への手紙や自分のメモと考えた。

未来に自分が好きな音楽をやりたい人に向けての手紙でもあると思って、ブログの記事を書いてるんですけど、この考えをもっと拡張できたら出来ることがまだあるかもしれない。もうちょっと考えます…

学ぶ

あるものが面白くない。楽しくない。そこから脱却するのに一番簡単なことは学ぶことでした。

なぜ面白くないかというと、楽しむだけの知識が欠けていることが自分には多かったですね。

単純に知識が増えたら楽しめることはたくさんありました。

音楽だと、明確に自分の好みではないものはあったりするんですけど、それでも技術的な側面や、その音楽が生まれた背景を学んで面白くなかったことはない。

演奏することが難しくなっても、自分が愛している音楽について学び続けることは出来る。

「学ぶことは誰からも奪われない」というB.B Kingの言葉は、ずっと自分の生きる杖になってます。

学ぶ以外に自由になる方法はないのかもしれない。まあ、自分にとってですけど…

自分を知る

めちゃくちゃ大事ですね…

何が楽しいのか、楽しくないのか。幸福である、不幸である、快適である、不快であること。それを決めるのは自分ですよね。

自分を知らなければ対策のうちようもない。自分の価値観が明らかになってないと究極的な状況で優先順位をつけられない。

自分を知ることが、デッドロックから抜け出す第一歩ですかね。自分はそうでした。

まあ、その一方で、自分という人間のどうしようもなさを知ることにもなった。

しんどいものの、ちょっとでもまともになりたいのは良いことだと思っておきます…

記録する

自分を知るために必要なことですね。記録を自己目的化したら意味はないですけど…

記録が趣味でもあり、仕事の一部でもあるので他の方より、記録に関しては過大評価してるところもあるとは思いますが…

先程も書きましたけど、進歩した、どう考えたか、自分を知るために記録が必要。

記録無しで今までの人生を振り返るとか、ほぼその時のコンディションに左右されちゃいますしね。自分はそうですね。

行動経済学を紐解くまでもなく、直近の出来事に簡単に人は左右される。絶望しやすいとわかっているのだから、それに引きずられないようにするためでもあります。

記録見たら、そんなことなかったよということありますしね。こんなおっさんになってるのに、記録がなかったら凧のように不安定ですもの。

毎日、記録に良かったことを必ず書くようにしてるんですけど、悪いことしかなかったということなんてないんですよね。

でも、書こうと思わないと良かったことすら思い出せなかったりする。ブログで振り返りやってるのもそのためです。

訓練で認知もある程度変えられる。自分の傾向を理解していれば、少しずつでも変わることは出来ました。

自分が使える時間を把握していたら、練習や学ぶことに割ける時間もわかりますしね。記録、大事ですね…

コストを減らす

コストは、時間、金銭、心理的なものといろいろに分類できますが、全部時間的なコストと換算するのがシンプル。時間は金銭に変換できるし、金銭も概ね時間に変換できる。心理的負担も金銭で解決できることは多い。

でも、最後に時間はなくなる。どんな人にも例外はない。だから、コストを減らすことは時間を増やすことでもある。

快適な時間を増やして、不快な時間を減らす。余裕がなくても楽しむ方法を考えることは出来るけれど、一番いいのは、余裕があること。コストを減らしていれば、楽しむことも容易になる。

コストについてはまだ考えたりないことがありますね…まだ出来ることはありそうです。

料理するのはしんどいときもあるけど、新しい調理道具を使うと定義したら楽しくなった。これは視点を変えることでもあるけれど、心理的コストを減らすことでもある。

こういうことをもっと突き詰めたい。

毎年恒例の処分がうまく出来なかったときに、定義を変えたら一気に楽しくなった。未来の自分が動けない状態を基準にすれば、考えられなくても動ける。ここはまだまだ可能性がありますね。ずっと考えているようでいて、細かく詰められていないところがある。

まとめ

今年一年は生き方を変える実験をいろいろしていきます。

嫌になってしまった仕事はやらないことにしました。

まあ、このままでは生活できないのでいろいろ考えなきゃいけないんですけどね…貴族に転職したい‥

楽しむための技術で足りないのは、コストを下げること。

考えてはきているけれど、まだ考え方が足りないです。もうちょっとでいろんなことを突破できそうでもある。

システムに関してももっと考える必要がある。学び直しですね。

意志力が要求されなくても楽しめるように自然になること。技術の究極は意識せずともその状態を保てることかもしれない。もっと考えます。

楽しむための技術は、快適な時間を増やして、不快な時間を減らす。

だから、無理ない暮らしについて考えていることは変わらないんですけどね…これが自分のテーマなんでしょうね。

違った側面からももうちょっと考え続けたいです…

コメント

タイトルとURLをコピーしました