パワーリフティングとtwitter | 無理ない暮らし
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パワーリフティングとtwitter

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トレーニング
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twitterはいままでそれほどやっていなかったのだけれど、パワーリフティングをやっている人たちをフォローしたら刺激になった。

ノーギアがこんなに盛り上がってきたのかと知らなかったが、ノーギアなら一人でも練習できるのは楽しい。

みんな、自分のベストを尽くそうと計画して、実行している。

パワーリフティングは、もちろん他者との競争でもあるけれど、自分の記録を伸ばすことが何より面白い。

通っていたジムで、パワーはやらないのとずっと声をかけてくださった方がいたので、スクワットもローバーだし、デッドリフトもワイドスタンス。ベンチプレスもずっとパワーフォーム。ヘタだし弱いけれど好きなのだ。こんなに面白くなるとは思わなかった。

こう言ったら、パワーリフティングをしない人に笑われそうだけれど、重量と向かい合うときは自分と向かい合うことだ。

  • フォームは正しいのか
  • 自分のボトルネックはどこにあるのか
  • 本当にあがるのか
  • 見栄を張った重量設定ではないのか

パワーリフティングは、体を鍛える種目から派生した競技だ。もちろん、体を鍛えるトレーニングでもあるけれど、自分が学んだのは自分に忠実であるようにトレーニングしてくれるものだということ。

何が何でも上げてやるという強い気持ちを持つことも大事だけれど、無理なフォームでやってはいけない。

強い気持ちを持つ必要がある一方で、冷静に自分を見つめる視点も必要だ。

重量設定も、自分が持ち上げられる以上のものを正しくないフォームで持つのは、見栄だ。

バーベルに向かい合うときには、正直さが問われている。自分という人間が、こんなに虚栄心に満ちていたのかと思わされる。

twitter、本当に良かった。パワーリフティングを真剣にやっている人は、みな、自分と向き合っているのがわかるからだ。

高重量を挙げる人を見れば、感嘆する。高重量を挙上することができるのは、まさに克己心がないと出来ないからだ。

どんなに素質がある人でも、トレーニングすれば伸び悩む時期は来る。それを突破できるのは、自分と向き合ってきたからだ。だから、高重量をあげられる人が、誠実に自分を見つめて来たということがわかるのだ。

音楽と近いからかもしれない。素晴らしいミュージシャンの演奏の背後にある訓練が見えると感動するのと同じだ。

優れたミュージシャンにはそれとわかる個性がある。自分が何者であるかを問い続けた先にスタイルが出来る。

トレーニングをすると、自分が何者であるかがよく分かる。どんどん伸びていく人もいれば、自分の様になかなか伸びていかない人間もいる。ある人にとってベストのトレーニングが自分にとってベストではないことがほとんどだ。

自分は高頻度のトレーニングに耐えられるほど、体は強くない。トレーニングボリュームが少ないと、疲労は残らないけれど発達はしにくい。自分の体型で出力のしやすさも異なる。効かせやすいフォームも異なる。本当に人と自分は違うのだとわかる。正解はない。正解が無数にあると言ってもいいのかもしれない。自分で探すしかないのだ。

自分は自分ということがはっきりとわかる。

パワーリフティングを続けている人たちは、みな独自のフォームがある。それは、自分がどのような人間であるか対話した結果だ。

パワーリフティングをやってみようと今のジムでも声を掛けられて、やっぱりやりたいと思った。

膝も変形してしまっているし、腱板も痛めている。冷静に考えたら、試合に出るのなんか無理があるだろう。体力の回復を優先事項に置かなければいけないくらい体は弱っている。わかっているのだ。でも、やりたい。試合に出られないとしても、試合に出ることを諦めたくはない。

希望を持ちすぎることは、希望の奴隷になることだ。が、希望無くしては自己憐憫の奴隷になる。

体を壊して、まともに動けるようになるところから始めたトレーニング。あまりにも力がなくて、恥ずかしいくらいの重量しか持てなかった。普通の女性より筋力がなかった。

体を壊して、自信を失っていた自分が、もう一度立ち上がることが出来たのは、遅くとも自分の進歩を実感できたからだ。

数字によって、自分の歩みが遅くとも、素質がなくとも、自分で工夫してきて少しずつ進歩した。何もかもが前進しないという感覚でいた地獄のような時期から抜け出せたのは、トレーニングのおかげだと言える。

他人の言葉も届かないし、自分も信じられない。けれど、数字で進歩がわかるパワーリフティングは自信を回復させた。自信とは他者からの承認で育まれるものだが、自分も他人も信じられない状態では自信を回復するのは困難になる。バーベルの重量は自分の内なる他者でもあったのだ。絶対的な他者だ。数字しか語らないゆえに、なんのバイアスもかからず、進歩を受け止められた。

無理ない暮らしを志向しているのに、なぜ、パワーリフティングと思わなくもなかったのだが、書いていてわかった。

パワーリフティングは、いかに楽に挙げるかを考え、実行するスポーツだ。

普通だったら上がらない重量を、一つの筋肉だけではなく複数の筋肉を使って、挙上することは、自分の考えとつながる。

困難な状況を打破するために、限界があるリソースを上手く使う。自分の現状の力を把握して、それらすべてを使うことで、無理なことを無理でなくすること。パワーリフティングと全く同じだ。

自分がのぞむ無理がない暮らしは、出来る範囲という意味ももちろんある。

自分ができる範囲を超えることは出来ない。生物としての限界からは逃れられない。が、無理だと思うことを工夫して無理なくすること。それが自分の無理ない暮らしだろう。

望んでいる暮らしは、スローで安穏とした暮らしではない。

無理を無理でなくすることなのだ。

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